つれづれコラム[第3回/ 利他を考える]

コラム 2024.08.21

桜新町アーバンクリニックの院長・遠矢医師が、日々の診療やケアのなかで大切にしていること、地域医療のこと、人生の健康について、つれづれなるままに書き綴る言葉たち。

文:遠矢純一郎(医師)
編集・写真:尾山直子(看護師)

第3回 「利他を考える」

コロナ禍以降、あちこちで「利他」という言葉が語られるようになった。マスク装着は他者に感染させないためというのも「利他」。ひとり一人が社会への蔓延を防ぐことが、自らの感染防護につながるとなると、案外利他と利己は対義語ではないのだろうと直感的に思う。

落語や映画から、“利他”を考える

ここ数年、利他とケアについての書籍が目立つ。代官山の蔦屋書店でたまたま手に取った東京工業大学リベラルアーツ教授である中島岳志氏の「思いがけず利他」という本に惹き込まれた。それは冒頭で僕が大好きな落語の演目「文七元結(ぶんしちもっとい)」を引用していたから。

人情噺として知られるこの演目、博打で借金まみれの長兵衛、父親の借金苦を助けようと娘は自ら吉原に身を売ろうとする。見かねた女郎屋の女将は長兵衛に50両を貸し、1年後までに返済すれば娘は店に出さずに返すという。その50両を持ち帰る途中、長兵衛は通りすがりに出くわした橋から身投げしようとしている若者を引き止める。若者は集金した店の金をスリにすられてしまい、店の主に死んでお詫びするのだという。説得を聞き入れない若者に、長兵衛は持っていた大切な50両を渡してしまう、というストーリー。

そんな大事な金をなぜ見ず知らずの若者に与えてしまったのか。その解釈は噺家の間でも違いがある。昭和の大名人である古今亭志ん朝は、若者の主への忠義に共感したのだという。一方落語の反逆児と言われた立川談志は、この噺の解釈に生涯悩みつづけ、「共感なんかいらない。江戸っ子気質がそうさせただけ」と、あえて共感をはずして演じたという。
「がんばってるから、助けてあげたい」。「いい人なのに、困ってるから支援したい」。
確かに与える側にとって、共感は利他の動機となるように思うが、共感が利他の条件となると、障がい者や要介護者など、日常的に他者からの援助やケアが必要な方はこう考えるだろう。「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」と。

映画「こんな夜更けにバナナかよ」では、大泉洋演じる筋ジストロフィーを患う主人公・鹿野が、自力では手足すら動かせない障がい者だが、親元を離れて、ボランティアに支えてもらいながら生きる日々を描く。24時間片時もボランティアが居なければ生活できない。
にもかかわらず、鹿野はわがまま言いたい放題で、自分をさらけ出しながらボランティアをこき使う。うんざりするボランティアたちと感情的にもぶつかり合いながらも、その先に相互理解が生まれ、ボランティア側の生き方も変わっていく。そこには共感を得ることを拒絶するかのような鹿野のポリシーが感じられる。障がい者の権利としてのケアを求めている。

近内悠太氏は「利他・ケア・傷の倫理学」において、利他とケアをこう説明している。
利他とは、「自分の大切にしているものよりも、他者の大切にしているものを優先すること」。
ケアとは、「他者に導かれて、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」。
多様性の時代、ひとり一人が大切にしていることが多種多様でみえにくく、そこに寄り添うケアには「自己満足」「自己犠牲」の二択がつきまとう。もちろんケアする中で、その方の生き方や価値観、苦しみや悲しみ、そして喜びへの共感は、個別性の高いケアを行う上で大切な要素だと思う。

医療・ケアに従事する人々の“利他”

人間の本性には、自分の利益だけでなく、他者に対する共感から道徳的な判断をする心の働きがあるという。社会性のある生き物であるヒトは、他者のことを慮ることによって自分が存在できるのだ。そもそも利他主義は、長い医学の歴史の中で医療従事者と強く結びついてきた考え方で、古代の「ヒポクラテスの誓い」でもその中核をなしている。
昨今のコロナ診療でみられるように、リスクを伴うにもかかわらず感染患者のケアに傾倒する医療者の行動は、まさに利他主義のなせることだし、それこそが医療者のプロフェッショナリズムと思う。一方で、残念ながらコロナ禍の最中でも「発熱者はお断り」という医療機関が多くあったことも事実で、米国内科学会でも医療者に利他主義が薄れつつあることも指摘されている。

在宅医療のなかで、患者さんや地域の連携先から急なSOSを頂いたときに、とりあえず飛んでいく場面は少なくない。困ってるなら、それを自分が救えるのならと、条件反射的に駆け出すあの感覚。そしてその瞬間に居合わせたスタッフが自分がすべきことにサッと動きはじめるあの頼もしさは、みんなが利他という思いでつながっているのだろう。
医療者のみならず、利他が社会を包み込むことで、ひとり一人が生きやすい世の中になるだろう。僕らの診療やケアを、利己・利他という内省的な観点で見つめていくことを続けていこうと思う。

(第3回・了)

ページの先頭へ戻る