つれづれコラム[第2回/ “ 死ぬこと ” について]

コラム 2023.12.27

桜新町アーバンクリニックの院長・遠矢医師が、日々の診療やケアのなかで大切にしていること、地域医療のこと、人生の健康について、つれづれなるままに書き綴る言葉たち。

文:遠矢純一郎(医師)
編集・写真:尾山直子(看護師)

第2回 「 “ 死ぬこと ” について」

高齢者の医療に携わっていると、“死ぬこと” が近くに感じられます。こんな風に医者の僕が書くと、なんだか死を呼ぶ医者のようで不吉に思われるかもしれませんね。(笑)

僕らのところに在宅医療の依頼を頂く高齢患者さんの平均年齢は83歳。すでに平均寿命に近いところまで生きておられるので、おのずと数年以内に天寿を全うすることになります。その中で、ご自宅で最期を迎えられる(「自宅看取り」といいます)方は、1年間に130名ほど。およそ3日に1人をご自宅で看取っていることになります。

人々の最期の時間が、どう変化してきたか

かつての日本では、ほとんどの方がご自宅で、いわゆる畳の上で亡くなっていました。
昭和の初めごろは医療がいまほど高度ではなく、病院と自宅でできる検査や治療があまり変わらなかったこともあり、老いや病気で衰弱した方が、最期の時間をご自宅で家族にささえられながら、静かに死を迎えていくことが、ごく普通に自然になされていました。その後医療の進歩や国民皆保険の影響で、病人は病院へ行くこと、急変したら救急車で病院に運び、救命医療を受けることが「当たり前化」しました。それに伴い病院看取りの割合は右肩上がりで増えていきました。1950年代(昭和25年頃)には約9割が自宅看取りだったのが、1976年(昭和50年頃)には自宅看取りと病院看取りの割合が50:50になり、やがて2000年代(平成10年頃)以降は、病院看取りが9割に達し、以後はその状況が続いています。
一方で、一般市民に対するアンケートでは、約7割の方が「最期は病院ではなく自宅で迎えたい」「最期の時まで自分らしく、家族と共に過ごしたい」という希望を持っているという結果が得られています。にもかかわらず、9割が病院で亡くなっているという現実との間には大きなギャップがあり、死にゆくひとの「最期の希望」が叶えられていない状態にあるのです。

ちなみに、医療の先進国と言われるアメリカや福祉が進んでいるオランダでの死亡場所統計では、いずれも病院、自宅、施設のそれぞれで3分の1ずつとなっています。死に場所が極端に病院に集中しているのは、日本に特有なことと言えるでしょう。
なぜそうなったのでしょうか。日本は国民皆保険で医療を安く使えるから?確かにアメリカは医療の自己負担額が高く、よほどの状況でもない限り、最期まで病院で過ごすということは経済的にも難しいでしょう。しかしオランダなどの欧州諸国は基本的に医療費の自己負担は安く抑えられているので、医療費だけの問題ではなさそうです。
その理由のひとつには、長らく日本では、自宅で看取る仕組みがなかったことが挙げられるでしょう。病気になったら病院へ行き、体調が悪いうちは入院を続け、健康体にならないと退院できないことが「常識」となりました。それに応えるために、病気の急性期が過ぎた後も、回復しきれていない方への長期入院が可能な療養型病院が数多く作られていきました。その結果、完全に治りきれない高齢者は療養病床で長く過ごし、寝たきりとなり、結局最期まで自宅には戻れず、そのまま病院で最期を迎えています。

“ 尊厳ある 穏やかな死 ” を地域に取り戻す

ほとんどの方が病院で亡くなるようになって久しい日本では、人の死は身近なものではなくなりました。人がどういう過程で死んでいくのか、ほとんどの方は経験がなく、知る機会もないでしょう。実際、僕らが在宅医療で関わる患者さんやご家族でも、ご本人がもう病院には行きたくないと望んでいても、「そうは言っても、状態が悪くなったら入院せざるを得ないだろう」と考えておられる方が多いです。
しかしながら、いのちには限りがあります。たとえ食べられなくなっても、点滴さえし続ければ生きながらえるというものではありません。一切の食事や水分すら口にしなくなると、残された時間はおよそ1ー2週間。時々傍らに寄り添うご家族から、「先生、もうなにもできることはないのか?せめて点滴くらいしてもらえれば」というご希望を頂くこともあります。病気や老いの結果、衰弱していく身体は、もはや栄養や水分も処理しきれなくなっていて、点滴ですら負担になることが多く、かえって本人を苦しめてしまうこともしばしば経験します。

もちろん自宅で家族や介護職の支えを受けながら看取っていくためには苦痛となる症状を十分にとる必要があります。それを在宅緩和ケアといい、在宅医療が介入する大きな目的のひとつです。痛みや呼吸苦などの症状を軽減させるための治療は、延命のための点滴などとは違い、本人にとってメリットのあることなので、最後の瞬間まで可能な限り手を尽くしていきます。
延命のための医療的な介入をやめて、緩和ケアで苦痛を取り除きつつ、自然なままの状態で迎える最期は、草花が枯れていくように、潮が引いていくように、とても穏やかで静謐なものです。長年暮らし続けた場所で看取られる安心感は、本人を余計な不安や孤独から解き放ち、自由で尊厳のある人生の終わりを実感できることでしょう。また遺されるご家族にとっても、そのかけがえのない時間を本人と過ごし寄り添うなかで、徐々に本人が旅立っていくことへの心の準備ができます。やがて迎えるその時には、家族で見送った達成感や満足感を語られることも少なくありません。そうした経験は、大切な家族を亡くされた大きな悲しみを癒す力になってくれることでしょうし、自身の死生観や生き方を考える貴重な機会となるでしょう。
暮らしの場で迎える自然な死が与えてくれる穏やかさや尊厳を、現代医療は医学的管理という名の下に、個人や家族から取り上げてしまったように感じています。古来、看取りや人の死にまつわるさまざまなしきたりや風習は、長く伝承され、その地域特有の生活様式や価値観が形成されてきました。「看取りの文化」ともいえるこれらの営みは、地域社会をささえ、まとめる原動力にもなっていました。

いまから17年後の2040年をピークに高齢者人口はさらに増えていき、死亡者数もいまより40万人(30%)ほど多い170万人に達すると見込まれています。病院はますます急性期治療に特化していき、看取る場所ではなくなっていくでしょう。看取りや死を病院から地域へ自宅へと取り戻していくことを早急に進めていかねばなりません。多くの人が望む最期まで住み慣れた自宅や施設で過ごしたいという願いを叶えるには、在宅医療の体制を整備していくとともに、国民ひとりひとりの意識や地域社会のあり方を変えていく必要があります。
誰にも必ずやってくる老いや死を受け入れ、そこから人間の尊厳や死生観を学ぶ文化を、現代の暮らしの中で形作っていくような社会を、みんなで考えていきたいと思います。

(第2回・了)

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