つれづれコラム[第1回/カケラを集める]

コラム 2023.08.02

桜新町アーバンクリニックの院長・遠矢医師が、日々の診療やケアのなかで大切にしていること、地域医療のこと、人生の健康について、つれづれなるままに書き綴る言葉たち。

文:遠矢純一郎(医師)
編集・写真:尾山直子(看護師)

第1回 「カケラを集める」

このコラムは、地域の医療や看護・介護に携わる僕らが、日々の仕事や生活の中で感じたことを気ままに綴りながら、ときどき「人生の健康」について考えてみようという連載企画です。

仕事柄、いろんな方の人生の終い方に遭遇することが多いのですが、なかには出会ったときにはもう寝たきりだったり、会話も難しいような状態であることも少なくありません。
長い長い人生の一番末端のしっぽのあたりで関わり始めるわけですが、最期までできるだけ「そのひとらしく」あることが、本人はもちろんご家族にとっても望む姿だと思うので、限られた期間のなかで、少しでも「そのひとらしさ」に触れたくて、介護ベッドの柵の向こうに見える老いたその方の横顔を拝見しながら、想像を膨らませていきます。幸いご自宅には、昔の写真とか表彰状とか孫が描いた似顔絵とかが壁にあったり、場合によってはご本人が描かかれた絵とか書道などの作品が飾られていることもあります。
どこで生まれて、どこで育ち、どんな仕事や役割を担ってこられたのか。いつからこの家に住み、どんな家庭を作ってきたのかなど、訪問の度に語られるいろんな今と昔のエピソードから、少しずつその方らしさのカケラを集めていくことができます。

基本的に医者は医療を施すのが仕事なので、診察からみえる病気や症状、身体のことが分かっておればよいわけですが、実はそう簡単ではありません。
たとえば入院したり薬を処方したり注射を打ったりすることには、必ず副作用を伴います。身体のなかの病気をやっつける治療には、少なからず身体そのものにもダメージを与えてしまうのです。場合によっては治療の効果よりダメージの方が大きくなってしまうことも、特に高齢者ではしばしば経験します。肺炎の治療のために2週間入院したら、その間寝たきりだったのですっかり歩けなくなってしまったなど。そういう経験を何度か繰り返すと、「もう入院はしたくない」とか「もう薬はけっこうです」と仰る方も居られます。確かに損害を被るのは本人なので、たとえ医者といえどもそれを無視して無理な治療を強いることはできません。

そんな風に自分で言える方は良いのですが、もはや言葉でのコミュニケーションが難しくなった方などの場合には、家族や医療者で「そのひとだったら、どうしたいか」を想像しながら、治療の是非を判断したり選択していく必要が生じます。物言えぬ本人の代わりに、その方の命に関わる大事な選択を迫られたとき、なにより頼りになるのは、これまで本人が語っておられた言葉や行動、大事にしていた価値観や死生観などから浮かび上がる「そのひとらしさ」に他なりません。

生き物にとって死は避けられないことである以上、人生のしっぽに関わる僕らの仕事は、その方の死を持って終わります。医療者として治せないこと命を救えないことは敗北だと教わってきましたが、死が避けられないことならば、せめてその方が納得、満足する最期を迎えられるようにささえていくことも、医療者が果たすべき役割と考えています。

だから僕らは毎回の訪問の度に、そのひとらしさを理解していくことに努めていきます。
世の中にはいろんな人生があり、ときには自分とは違うことに驚いたり受け入れ難い気持ちになったりすることもあります。そうした人生の先輩方の百人百色な生き方に触れることができるのも、この仕事ならではであり、携わるご家族や僕らにいつも多くの学びを与えてくださいます。
死に至る過程では、病状や症状も不安定になり、深夜のコールや出動も増えていきますが、やがて迎える死の瞬間に、最期までその方らしくあることを支えきれたときには、ご家族と共にそのことに感謝し、互いの健闘をたたえ合い、不安や苦痛が終わったことを慰め合います。その方の人生が閉じられ、大切なひとを失った悲しみのなかにおいても、その満足感や納得感は家族や僕らを癒やしてくれます。

そんな風に最期まで自分らしくあることをささえるために、僕らは今日もその方らしさのカケラを探して、対話を続けていきます。それは自分自身のらしさに向き合うことでもあります。

「ハンカチに 海のかけらを くるみけり」 和田誠

(第1回・了)

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